あの日から35年雲仙普賢岳火砕流
雲仙普賢岳火砕流災害からもう、35年も経つのですね。亡くなった方々のご冥福をお祈りします。あの日は1991年6月3日午後4時8分、長崎県島原市の雲仙普賢岳で大火砕流が発生し、猛烈なスピードでふもとの集落を襲った。この火砕流で警戒中の消防団員と警察官、報道関係者、火山学者ら43人が犠牲になった。雲仙普賢岳は前年11月、約200年ぶりに噴火を始めていて、春ごろからは活動が活発になっていた。前兆はあったが、大勢の油断が惨禍を招いた。
警察・消防団は、24時間警戒巡回をしていた。報道関係者は、スクープ映像を撮ろうと「定点」に居座り続けた。タクシ-運転手は、報道関係者を残して移動できないので待機していた。ある意味良い稼ぎになっていた。しかし消防団はボランティアだから、先が見えない状況の中を大変な苦労をしながら賢明に警戒巡回をしていた。
あの大火砕流から35年になった3日、被災した長崎県島原市は鎮魂の祈りに包まれた。私は6月4日が結婚記念日で、この日のことはよく覚えています。市内では大火砕流が発生した午後4時8分に追悼のサイレンが鳴り響き、遺族や市民らが黙とう。小中学校などでは「いのりの日」集会や追悼行事が開かれ、災害の記憶と教訓の継承、そして古里の発展へ歩み続けていくことを誓った。
大火砕流が発生し、近年にない災害だったことから島原市は、日本国中から注目を浴びていた。その中心は、『ひげの市長』と言われた鐘ヶ江管一元島原市長だった。その市長に3ヶ月後、お見舞いとお願いで面会することになるとはこの時、知るよしもありませんでした。私は大火砕流が発生した6月3日は、7月からのクラブ幹事(高松栗林ライオンズクラブ)就任のため多忙を極めておりました。
幹事就任前後から、島原の小学生を『高松冬のまつり』に招こうという案が浮上し、その交渉役として松野誠寛幹事と、平井大資前幹事が島原ライオンズクラブのもとに派遣されました。そして島原市庁舎に、鐘ヶ江管一島原市長を表敬訪問し、派遣の趣旨の説明をし、協力をお願いしました。結果、この年の第5回高松冬のまつり点灯式(12月21日午後6時)の舞台に、島原第四小学校生ら37人を登壇させることが出来ました。それから両クラブは御縁を頂き、今も交流が続いています。
終息宣言まで約5年半に及んだ災害で、自宅を失った被災者らが集団移転した仁田団地の第一公園では、犠牲者名が刻まれた追悼碑前に市が献花所を設けた。古川隆三郎市長は、災害対応に奔走し、終息後は火山防災の啓発に尽力した太田一也九州大名誉教授と鐘ケ江管一元市長が昨年、相次いで亡くなったことに触れ、「お二人の思いを未来へつなげなければ。自然災害の恐ろしさを子どもたちに伝え、災害に強いまちをつくりたい」と力を込めた。
市消防団員らは、消防殉職者慰霊碑前で追悼。災害を直接知らない世代が増え、同消防団では唯一、当時現役だった金子宗弘団長(65)は、「(噴火活動で形成された)溶岩ドームが崩壊する危険は続いている。二度と犠牲者を出さずに住民を守れるよう、地域防災の経験をしっかり後輩団員に伝えていきたい」と話していた。
大火砕流で命を落とした消防団員らが詰め所にしていた北上木場農業研修所跡には、遺族や市民らが参列。午後4時8分にサイレンが響く中、慰霊の鐘を鳴らし、静かに黙とうした。報道陣が撮影ポイントにしていた“定点”でも、手を合わせる姿が見られた。さらに雲仙岳災害記念館では、追悼行事「いのりの灯(ともしび)」があり、島原半島の小中学生らが手作りしたキャンドル約2千本が点灯。参加した親子らが、継承の誓いを胸に刻んだ。
こうして私も来年また、大火砕流発生で43人の尊い犠牲者を出して36年という記事を書くことでしょう。一昨年島原ライオンズクラブの結成65年記念式典では、鐘ヶ江管一元島原市長自身と保子婦人とも親しく思いで話ができました。あの逆境に立ち向かった勇者は、ライオンズマンでした。彼こそライオンズと呼ばれる男でした。私の大きな誇りの一つであります。