江戸時代初期の『明暦の大火』は1月18日から3日間
1657(明暦3)年1月18日江戸本郷丸山の妙本寺(隣の大名屋敷から出火説もあり)から出た火は、前年の11月から80日間も雨が降らず乾燥していたところ、強い西風に煽られ火はまるで人が立ち上がるかの様に起き上がって飛んで行き、江戸の町を焼きつくしたというのです。イメージ絵では、炎が竜巻のように舞上がっています。
一端鎮火に向かった火は、運悪く翌19日は別の小石川からまたまた出火、江戸城も被災したと記録されています。外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるのですが3万から10万人と記録されている。この大火で焼失した江戸城天守は、その後、再建されることがなかった。再建に関しての判断は、後述の保科正之らの英断による。
更に20日は第三の場所の麹町から出火、西風に煽られて東へ災禍は広がり、川や海が遮るまで燃え続きました。これら3つの大火で、江戸の6割が消失し、前述のように10万人が死亡し、負傷者も数え切れないほど出たと、記録が残っています。その当時の将軍は、第3代・徳川家光の長子の第4代・徳川家綱(在職期間は、1651・慶安4年〜1680・延宝8年)でした。
家綱は11歳で将軍を継承したと記されていますが、11歳というのは当時の年齢の数え方であり、10歳のお誕生日前に将軍になっていますので、現代の感覚では、わずか9歳で就任したということです。将軍就任の年には、家光時代に改易されて浪人となった由井正雪、丸橋忠弥による倒幕未遂事件「慶安の変」も起こりました。また『島原の乱』も、時の幕府を心配させました。
将軍家綱は、叔父にあたる保科正之や、家光時代からの重臣・酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋の寛永の遺老に支えられて無事、難局を乗り越えていきます。1657(明暦3)年、大火が起きた時は、すでに将軍となり月日も経っていたとはいえ家綱は15,6才、陣頭指揮を執ったのは先の保科正之でした。明暦の大火で焼失した本丸を再建するだけでも、100万両という膨大な資金が必要であり、天守閣の再建は保科正之の英断で結果見送られました。再建の跡は、前田藩の石積みだけ今に残っています。
保科正之らは大火に学んで、防衛上のため千住大橋しかなかった隅田川に両国橋を架設、橋の袂には「火除地」を設置して、建造物を造ることを禁止しました。例外として、すぐに取り壊せるものに限り許可されました。開地(空地)も多く作られました。明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が遠くに移転したのです。
また、市区改正が行われるとともに、防衛のため千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだのです。さらに防災への取り組みも行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は防火のための建築規制を施行し、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励しました。
その後、29年にも及ぶ安定政権を維持し武力の『武断政治』から『文治政治』へと変化を見せた時代でもありました。保科正之を主導者にし、外様大名への一定の配慮、末期養子禁の緩和、大名証人制度の禁止、殉死禁止令などの改正がなされています。江戸期江戸では19回の大火、これに対して、京都・大阪では240年間で僅か数回の火災で終わっています。
江戸はこの『明暦の大火』、時代が下って大正12年(1923)9月1日『関東大震災』の罹災者340万人の災禍、昭和20年(1945)の終戦からの復興と大きく3つの災害をきっかけにして、現在に至っています。これが日本人のDNAでしょうかね。明日はこの東京での小池百合子東京都知事裁定、『太陽光発電パネル設置』に関して書きます。