14日は言わずと知れた赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日
元禄15年(1703)12月14日未明、赤穂浪士は吉良邸に討ち入り上野介の首を取った。日本人の多くが、今でも語る「忠臣蔵」のクライマックス討ち入りです。私は幼い頃から聞かされ、「忠臣蔵」の47士物語を楽しんでいました。さすがわが日本人と、賞賛していました。
そんな私の感情に火をつけ、なるほどなと合点がいったのが「竹村公太郎著日本史の謎は地形で解ける」PHP文庫。すでに小欄でも何度か紹介し、本も差し上げたこともあります。この本は何も、忠臣蔵だけを紹介したものではありませんが、「第6章赤穂浪士の討ち入りはなぜ成功したか」にこれが書かれています。
竹村公太郎氏の生講演でも、氏はその答えを言わずに会場を後にされました。答えは、本の中にあると言わんばかり。私は生講演の前に、もうこの本を読んでいました。当然、竹村公太郎氏の答えは知っていて、ほくそ笑みながら聞いていました。
忠臣蔵の舞台の山場は鎖かたびら、槍そして弓矢で完全武装した赤穂浪士による吉良上野介の虐殺場面である。しかし、この忠臣蔵の真の山場は観客たちが帰った後の誰も見ていない舞台での「吉良家の抹殺」であった。(144頁)
私は短気者ですから、答え(あくまでも竹村公太郎の考えで、これが史実かどうかは分からないが、読んでみるとなるほどと合点する)を先に紹介しますが、江戸幕府が討ち入りを応援していたというのです。
私はかねがね、事後に両国の北にある本所から、江戸城を抜けて品川宿の手前にある泉岳寺まで、47士が凱旋できたのは何かあるのではないかと考えていました。途中で幕府のとがめがないはずはないと、実に不思議に思っていました。
泉岳寺は、今でも線香が絶えない寺です。品川のホテルからの散歩コースでもあり、私も何度か行きましたが、その当時の足で行ったら相当の距離です。これ見よがしに、討ち入りを賞賛した江戸幕府の意図が読み取れます。
「第5章半蔵門は本当に裏門だったのか」と次章「第7章なぜ徳川幕府は吉良家を抹殺したか」の、前後の章も必見です。と言うのも、この事件後吉良家はお家断絶血筋も絶えています。一方浅野家は、後に赦免されて今でも脈々と続いています。
そこには小大名だった徳川家と、高家吉良家の領地が近かったための確執が眠っています。日頃しょうもないこれをお読み頂いている皆さんへの、私からのクリスマスプレゼントです。どうぞお楽しみ下さい。