第3925回

六親眷属あつまりて77日法要

2月12日に87歳で逝去した、母親松野サチ子の49日法要でした。早いものであっという間の49日法要でした。一週間ごとの法要が7×1で初七日が最初ですが、これは葬儀告別式の日に済ませました。27日37日47日57日67日77日と刻んでいきます。

今日で一区切りのように思っていますが、これから百ヶ日があって一周忌と続きます。亡くなった人を忘れないように、いろいろ行事が用意されています。今日も有難き読経が続きましたが、今日は区切りで長めの読経でしたが最後はやっぱり期待通りの「白骨の御文」でした。

わが家は、浄土真宗の一派大谷派の極楽寺さんが旦那寺です。従って「白骨の御文(おふみ)」と言うそうですが、同じものを本願寺派は、「白骨の御文章(ごぶんしょう)」と言い、興正派は「白骨の御勧章(ごかんしょう)」と呼ぶそうです。

話しは少し脱線しますが、法要に使う蝋燭の色ですが、これも白であったり赤であったり、宗派によってことなるようです。焼香も真宗は二度頂かずして焼炉へくべるのがしきたりとか。また線香も立てずに横に寝かせたままでした。

話しを「白骨の御文」に戻しますが、私はこの文章が好きで、もともと好き嫌いというものではないことを承知しながら、「我やさき、人やさき・けふ(今日)ともしらずあすともしらず・・・」と続きますが、本当に死というものはいつとはわからないものです。

それ故にそれまで、「たれのひとも早く後生の一大事を心にかけて・阿弥陀佛(あみだぶっと)をふかくたのみまいらせて念佛もうすべきものなり・あなかしこあなかしこ」となるわけです。

さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚(はかな)いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。

それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。

それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。

そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を深刻に受け止め、阿弥陀仏から他力の信心を頂いて、念仏申すべきであります。

電話で相談 メールで相談