第8357回

岡山県津山市には箕作阮甫がいた

仏生山コミュニティセンターが主催するイベントの一つに、コミュニティウオークがあります。毎月どこかしこかへ出掛けているようですが、5月は『岡山県津山市、出雲街道散策』で、本日17日早朝7時前に、コミュニティーセンターをまるい観光大型バスで44名が出掛けました。私は徒歩三分の至近に暮らしていますが、町内住民でも遠く人もいて、奥の10台くらいは今日の参加者でした。

このあたりの駐車場は、『NPO法人仏生山魂再開発フォーラム』が資金を集め、持主から買取をして市へ寄付した場所です。ここがなければ、マイカーで来ることが出来なかった人も出て、より便利になったことは間違いない。自分たちのコミュニティーセンター(旧公民館)の利活用は、市に頼りきりでなく自分たちの手でも汗をかいて、改善することを仏生山町住民は選択しました。私もほんの少し参加し、プチ自慢であります。

本日は瀬戸大橋を岡山へ渡り、中国山地の中心都市津山へ。城東むかし町家沿いで偶然見かけた『箕作阮甫(みつくりげんぽ)旧宅』へ、吸い込まれるように入っていきました。彼は、津山藩医の箕作貞固の三男として1799(寛政11)年に西新町に生まれ、1812(文化9)年に戸川町へ転居するまでの13年間この旧宅で過ごしました。

彼は、父・兄の没後十二歳で家督を継ぎ、1816(文化13)年には京都に出て医術習得に励んだ。1823(文政6)年には藩主の供で江戸へ行き、津山藩医宇田川玄真に入門、蘭学の修得に努めた。1839(天保10)年には、幕府天文台の蛮書和解御用に出役を命じられ、1853(嘉永6)年のペリー来航(アメリカ使節)に際して大統領親書の翻訳にあたり、同年のプチャーチン来航(ロシア使節)に際しても、幕府使節(筒井正憲・川路聖謨)に随行して外交書簡の翻訳に携わったのです。

1855(安政2)年五十六歳で隠居したのですが、幕末の状況はこれを許さず、翌年には幕府蕃書調所の教授職に登用され、1862(文久2)年には洋学をもってはじめて幕府直参に取り立てられた。この間、医学・語学・地理学・兵学など他分野にわたる多数の著訳書を作成し、その数は99部160余冊とも言われる。阮甫の後裔には、日本近代科学の基礎を築き、その興隆、発展につくした著名な学者が輩出されている。また箕作阮甫は、日本初の大学教授と呼ばれている。

彼の働いたところが、後の東京大学になっていたり、今日の日本の近代化の基礎を築いた偉人だったことは間違いないが、われわれ凡人はこんな偉人を知らない。江戸末期、度重なる欧米列強の来航の末に植民地化しなかった日本は、箕作阮甫らの存在があったからこそと言っても過言ではないだろう。良い気づきを頂きました。

津山まなびの鉄道館も、面白かった。特にここに働くOBの一人、81歳と言うが元気で、質問に生き生きとして答える。こうして毎日やることがある人は、比較的元気だ。今日の参加者のほとんどは、近くの日山(ひやま)へ毎朝登山する集団のようです。知り合いに聞くと、5時半とか、まだ私が夢の中にいる時間。私もこうして、毎日日記を書いている。自分のために書いている。これまた楽しい。

電話で相談 メールで相談