松下幸之助の行き方考え方に学ぶ松下資料館








昨日は一旦高松へ帰ってまた出てくる予定でしたが、話が盛り上がり大阪の日本橋で投宿になりました。そして今日、近鉄奈良線で「大和西大寺」まで行き、ここで京都線へ乗り換えて二つ目の「高の原」で降りました。駅前にイオンがあって、立派な駅です。奈良県と京都府の県境のようです。
昼食会場で合流をさせて頂き、松下資料館へ行きます。松下幸之助さんも、平成生まれの新卒者の中では、「知りません」と言う者も出始めていますが、平成元年4月に94歳で鬼籍に入るまで、明治・大正・昭和・平成の4代を生きた抜いた経営の神様です。
私もおざなりには、偉人として松下幸之助氏のことは知っていましたが、より強く意識するようになったのは、「稲盛和夫塾長」の講演会CDを通じてであります。そして今日、松下幸之助氏の直接の薫陶を受けたここ資料館の前館長(現顧問)川越森雄氏が、コンパクト版に松下幸之助氏の人となりを、分かり易くまとめて下さいました。
なんとこの川越森雄氏は、香川大学の出身だそうで、山地真人代表世話人の肝いりです。1969年、松下電器産業(現パナソニック)に入社され、新人研修後PHPへ出向になり、そのまま転籍して、65歳で顧問という変わり種であります。だから松下幸之助氏と、直接接することが出来たのです。
松下幸之助氏の功績をここで説明するのは、あまりにも失礼ですが、私のイメージが変わった点だけをお話しします。まず氏が生きた時代ですが、昭和20年の敗戦の年に既に50歳です。
明治37年(故人9歳)から、実家の和歌山から大阪へ丁稚奉公で働き始め、大正7年(同23歳)大阪大開町で独立開業です。その前の大正10年(同20歳)に、淡路島の網元の娘、「井植むめの」さんと結婚されています。故人とむめのさんと、むめのさんの弟さん(サンヨー電器設立者)の3人ではじめた住宅兼作業場でした。
敗戦当時の個人資産があまりにも巨額だったがために、GHQから7つの制限を受けて翌年PHP(Peace平和Happiness幸福Prosperity繁栄)研究所を設立しました。幸之助さんは、若くして事業に成功し、地位も名誉も財産も手に入れ、飽きたらぬ思いで66歳から、昭和36年ですが、社長を退任されてPHP活動を再開されたのです。それが京都の真々庵です。
更に驚くことに昭和39年(同69歳)、故人が言う3つめの危機、オリンピック直前の危機には、会長職にありながら自らが営業本部長代行として、販売制度の大改革を断行したのです。
世に語り継がれる「熱海会談」です。深々と頭を避ける幸之助氏の映像が残っています。そして昭和48年、78歳で会長を辞され相談役へ、さらに仕上げとして昭和55年(85歳)で財団法人松下政経塾を開塾、政治に期待を寄せたのです。
人間が目標、計画を立てて行う活動の一切が「経営」。「生きること」=個人の経営活動。「所帯を持つこと」=家族の経営活動。「企業の経営活動」。「政治」=国家国民の繁栄・平和・幸福を実現する経営活動⇒松下幸之助の国家経営の発想
最後に(本人の弁)、松下幸之助はなぜ成功したのか。
自分でもわからない。運命としか言いようがない。体が弱く、学問もなく、お金もなかった。(親兄弟もいなかった)。何もなかったから成功したのかも知れない。⇒自主責任経営/衆知経営/ダム式経営
運命感・独自の発想・志・人間観・素直な心⇒松下幸之助哲学の一端でした。