梅は咲いたか桜はまだかいな♪♪♪


東日本ではプルトニウムが漏れ出しているというのに、暢気なことを言っている、西日本の男です。本日は地元の2大工場の一つ、日本和紡興業㈱の仏生山工場を改めて見に行きました。今時、タンスを作るという青年の、工場候補としての活用を見極めるためです。
かれこれ2ヶ月前に、仏生山町の香川県農業試験場跡地利用でこの倉庫を移築できないか模索するために、この倉庫を見に来ました。その時に同席された岡昇平さんの紹介です。倉庫の移築は断念したのですが、何かの用途にここを使えたらいいなとは考えていました。
ここ日本和紡興業仏生山工場と、上原製作所は、幼心に仏生山町の誇りでした。少なくても私は固くそう信じていました。法然寺の北門近くにある日本和紡興業は、繊維を親指大の太さにして長く延ばし、ぐるぐる巻きにして、玄関マットにして輸出をしていました。それを近所のおばさんらが、内職で供給していたのです。
今も工場を維持管理されている田辺さんにお話しを聞くと、「当時の為替レートは1ドル360円で、随分輸出して売れていました」ということでした。素材が綿とウールで、特にウールは生産を中止した後にも、東南アジアやアメリカから、再開の打診が多く寄せられたそうです。工場はここの外、県内に6ヶ所もあったそうです。
もう一つの大企業は、小欄でも度々紹介しました「上原製作所」です。小学校の窓から上原製作所の赤と白色に塗り分けられたクレーンが、大きく見えていました。距離にしたら1㎞はなかったと思いますが、その程度は離れていたのですが、巨大なクレーンでした。世界各地の、造船場の移動式アームを作っていました。
こちらももう既に工場を閉鎖していますが、40~50年経った今頃になって、もう一度作ってくれないかという注文が、シンガポールやインドの造船場などから舞い込んでいるとのことでした。「(製品が)もう少し早く壊れていたら、会社は継続できたのに」と上原博文会長は笑いながら言うのですが、そのくらい頑丈な製品を、この仏生山町で作って輸出していたわけです。
上原製作所は、当時の図面も残っているし、後継者がうまく育っていたら、継続が可能であったと私は思いますが、上原博文会長も年をとりました。会長の意志を、後世に引き継げたとしたら、あの赤と白のクレーンは、燦然と輝いていたことでしょう。
写真は、日本和紡興業仏生山工場の外にある「梅」と、敷地内の桜です。桜は咲くと綺麗だそうです。暗い話題の中で、こんな写真は不謹慎ですかね。